松本清張はあらゆる規範をこえた作家である。日本の文学史上初めて出現した多様にして明確な個性を有する作家ということができる。
芥川賞を受賞した「或る『小倉日記』伝」が本来は直木賞の候補作だったという経緯が示すように、一つの型に分類することが不可能な大きさを持った文学者だった。「脱領域の文学」と評される萌芽を出発から胚胎していたのである。
作家としては異例の四十二歳からのスタートであったが、新しい物語性と平明さが多くの読者に支持され、『点と線』『眼の壁』などが空前のベストセラーとなった。
売れる作品への「中間小説」という一括りの評価に反撥しての「文学には純文学と通俗文学の二つしかない」とする発言は、松本清張の文学観、文学への矜持を端的に表すものであった。
主題によって形式を決定し、表現の方法を考える。そして「内容は時代の反映や思想の照射を受けて変貌を遂げてゆく」という主張は、現役のまま八十二歳で没するまで変わることはなかった。
主題への関心のおもむくままに重ねられた探求によって、主題はさらに深まり広がって行った。小説世界の枠をとびこえるのは時間の問題であったろう。不断の向上心、強靭な精神力で自らを動かし、つねに新たな分野へと向かって行ったのである。フィクション、ノンフィクション、評伝、古代史、現代史へと創作の領域を拡大し、驚異的な努力で独自の世界を構築したのである。 いずれの分野においても、究極の目的は人間存在の深奥を見据えることであった。普遍的なテーマによって人間を描き、歴史・社会の闇に迫ろうと試みた一作家の孤独な営為は、じつに多くの人びとに感銘と勇気を与えつづけたのである。
作家生活四十余年、その作品は長篇、短篇他あわせて千篇に及ぶ。
従来の小説愛好者以外の圧倒的多数の読者を獲得し、自らも大衆を愛した真の国民的作家であった松本清張は、しかし大衆の嗜好に左右されることなく、醒めたその開明性によって、終生創造の世界に挑戦したのである。天才の絶え間のない努力が、松本清張を戦後の日本文学の巨人たらしめたのである。